
今日はシャワーを浴びられた
今日、シャワーを浴びられた。
ただそれだけのことが、今の僕には大きい。
数日ぶりの水の音は少し冷たくて、でもやさしかった。
うつの波にいると、当たり前が遠のく。
「入れば楽になる」と分かっていても、体が動かない。
できなかった日を数えるたび、心が少し固くなる。
それでも今日は浴びられた。理由は分からない。
この「できた」を、今日の僕のためだけに小さく置いておきたい。
入れなかった日々のこと
浴室の前で止まる足。
栓をひねる手前で固まる指。
頭の中では順番どおりに段取りが並ぶのに、体は電源の落ちた機械みたいに沈黙していた。
「入らなきゃ」と思うほど、できない自分に視線が集まっていく。
誰に迷惑をかけたわけでもないのに、罪悪感だけが増えていった。
動けなかった日にも、静かなリズムがあった
一日をまるごと「できない」で塗ると見えづらい。
朝はまったく動けなくても、夕方にほんの少しだけ体が軽くなることがある。
また夜に沈むこともある。
同じ一日の中でも、わずかな揺れがある。
「ずっとできない」ではなく、「今日はここまで」と刻む。その視点を心の端に残しておく。
浴びられた日のこと
今日は、きっかけらしいきっかけはなかった。
窓から入る薄い光、乾いたタオルの手触り、遠くで鳴る給湯器の音。
どれか一つが合図になったのかもしれないし、どれでもないのかもしれない。
シャワーをひねると、水が額に当たり、首筋を流れ、足元で跳ねた。
体の時間に、心が少し遅れて追いついてくる。
「やっと入れた」という言い方もできるけれど、
今日は「やっと自分を労われた」のほうが近い。
髪を洗い忘れてもいい。短く終わってもいい。
完璧という線引きは、しばらく棚に上げておく。
浴びたあとに訪れる静けさ
浴びた直後に、空っぽみたいな疲れが来ることもある。
それでも「できた事実」は消えない。
事実と気分を同じ引き出しに入れないで、別々にしまっておく。
眠る前に、タオルの匂いだけをもう一度思い出す。
それで今日は十分だ。
原因も正解も、人それぞれだ。
僕は当事者の一人として、自分の今日を記録しているだけ。
入れない日が続いても、それは怠けではないと思う。
体調や心の事情が重なれば、当たり前の行動は簡単には取り出せない。
もし、今日あなたが浴びられたなら——それは今日のあなたの成果だ。
明日の保証に使わなくていい。
もし、今日は浴びられなかったなら——それでも大丈夫。
「次いつか」を、いま決めなくていい。
小さな方法、いくつかの選択肢(選択肢)
- 今日は顔だけ洗う。
- 湯気を感じるだけで終わる。
- 「シャワー30秒で切る」と先に決める。
- 好きなタオルや香りを“合図”にする。
- 入れなかった日の記録は残さない(無音もひとつの記録)。
どれも、採用してもしなくてもいい。
選ぶ権利は、あなたと僕にある。
おわりに ― 今日という記録
「浴びられた」日は、回復の証かもしれないし、ただの偶然かもしれない。
どちらでもいい。
シャワーの水が落ちる音、床に広がる小さな水たまり、
タオルで髪を拭う単純な往復——それらが、今日を閉じるための小さな儀式になった。
今日はシャワーを浴びられた。
その一行で、十分だ。
この記録について
- これは医療的助言ではなく、一個人の記録です。
- 統計や制度などの確定情報が必要な場合は、本文とは切り離した最小限の脚注で扱います。

